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■篠原貿易の歩み1 ■篠原貿易の歩み2 ■篠原貿易の歩み3
2.水晶製品の輸出で新しい時代をひらく
 
先代により、戦前から着々と築かれてきた水晶原石の輸入を母体とする貿易商社としての地位は、敗戦で再びふり出しにもどってしまいました。しかし、長い海外取引のノウハウと地道な努力でいち早く復活。業界全体の再興も順次計られ、今に続く宝飾フェアもスタートして行きます。新しい時代は、新しい世代によって成し遂げられねばなりませんでした。シベリア抑留から奇跡的に生還した篠原方泰氏の強力なリーダーシップにより、当社もまた業界も戦後の発展期を迎えます。高度経済成長を迎え、よりグレードの高い水晶宝飾品の生産基地へと脱皮するために、公私を越えた献身的な努力が続けられ、やがて“宝石の街・甲府”として全国から注目きれるようになりました。

混乱期のふんばりが発展の礎に
 
少し時代を遡ってみますと、実は昭和の初めから、篠原貿易だけでなく甲府の業者も次第に海外市場へ目を向けるようになっていました。しかし地場産業としての基盤ができかかってくる頃、中国大陸では戦争が始まり、やがて太平洋戦争へと突入して行きました。業者の努力にもかかわらず昭和15年7月の「奢侈品製造販売制限規則」いわゆる「七・七禁止令」により、水晶業界は致命的な打撃を受けました。もはや装飾品の製造も販売も全く不可能となったのです。業界はひとつの統制組合に編成され、戦火が拡大するなか、軍需産業の一翼を担うことになります。
昭和17年、長男方泰氏が出征、残された者たちは日々の暮らしもままならぬ状況下でした。要員不足になやまされながら、業界一丸となって軍需用の電波発振用水晶ST板の研磨を請け負うことで、ようやく技術的な余命だけは保つことができました。

新しい業界のリーダーヘ
 
シベリア抑留から帰還直後の方泰氏 第2代社長篠原方泰氏は大正5年(1916)生まれ。戦時下の厳しい状況のなかで青春を迎えていました。地元の甲府商業高校を卒業後、横浜市立商業専門学校を経て、昭和16年には慶応義塾大学経済学部を卒業、家業を継ぐ身ながら日立製作所に入社しました。しかし翌年には関東軍要員として招集され、将校として満州で終戦、昭和22年秋まで過酷なシベリアで抑留生活を送りました。絶望的な状況のなかでもなお人間らしく生きようとする様が、自叙伝の多くのページをさいて書き残されています。最終抑留地は、はるか中央アジアのボルガ河畔のエラブカ、長い長いシベリア鉄道の旅、やっと復員して甲府駅に降り立ったときの感慨は察するに余りあります。すぐさま駅前の知り合いに家族の安否をたずねほっと胸をなでおろしたそうです。まさに自叙伝『再生』のタイトル通りに、残された命をどう生き切るかが方泰氏の戦後のスタートになりました。
水晶製品に囲まれながら仕事をする晩年の正廣氏 ちょうど先代正廣氏が甲府で着々と復活への準備を始めていた頃でもありました。戦後の日本の復興は輸出による外貨の獲得しかありません。やがて民間貿易が自由に行えるようになると、もっぱら方泰氏がこちらの業務に当たるようになっていきました。ようやく暗く厳しい青春に終止符が打たれるのもこの頃からでした。昭和23年に雨宮きみと結婚すると長女泰子、長男義明(現社長)が生まれ、幸せな家庭もでき、まもなく家業を継ぐや、占領軍下のGHQを相手に業界再興に向けて、めざましい活躍が始まりました。

新鮮な目で世界を視る
 
戦後間もなく、アメリカはまぶしく輝いていました。かつての敵国ながら多くの日本人の憧れの国でした。戦後の復興を自らの使命とする働き盛りの方泰氏は、いち早く海外へ目を向け始めます。米国視察中の方泰氏早くも昭和32年には単身でアメリカ市場の調査に渡米、東京オリンピックの翌年の昭和40年には友人らとともに欧州、アフリカ、南米、北米の各地を視察、新鮮な目で世界の実状を目にしてきました。とりわけ宝石加工のメッカ、ドイツのイーダーオーバーシュタインを訪れたときには将来の甲府の姿を重ねて見ていた様子がうかがえます。経済の動向だけでなく旅で体験した多くのエピソードを通して、自らなすべき事を強く意識するようになりました。

地場産業の発展に奔走する毎日
 
業界全体がよくならなければ各企業の発展もないと、強い信念でリーダーシップを発揮する方泰氏の考えは終始一貫して、周囲を強く説得するものがありました。復員して数年を経ずして、昭和28年には、山梨宝石学校促進シンポジウムで熱弁をふるう県水晶商業協同組合(現山梨県ジュエリー協会)を結成し初代理事長に就き、当時取引の大きな壁となっていた物品税廃止に奔走、また昭和39年には山梨県輸出振興協会の設立に参加し、対米輸出の花形の自動車産業と同じく、自社自らも輸出貢献企業の認定を受け輸出促進の努力を重ねました。
方泰氏の見識と実行力はさらに地元財界の発展にも向けられ、昭和48年に甲府商工会議所の専務理事になってからは、宝石美術専門学校や地場産業センターの設立に奔走し、大型小売店舗の進出に当たっては、新しいコンセンサス方式を定着させるなど、更にその活動の幅を広げました。今ようやく実現されてきた甲府のまちのインフラ整備など、私事を捨て業界や地域の為になした貢献の大きさは、今なお多くの人々から聞くことができます。

輝かしい表彰・勲章の栄誉
 
観光物産展で知事を案内する方泰氏 業界や地域への献身的な貢献は、篠原貿易の一貫した姿勢でもありました。初代の正廣氏は常に郷里への感謝の念を忘れず、郷里の明野中学校に野球用のバックネットを寄贈されたのを始め、郷里へ様々な面で貢献し多くの村人に感謝されました。悠々自適の暮らしを続けながら、生涯にわたる活躍を認められ、黄綬褒章を、また勲五等雙光旭日章を与えられました。一方、初代以上に様々な役職を成し遂げた方泰氏も業界への貢献を認められ藍綬褒章、紺綬褒章を授与、ほどなく勲四等瑞宝章を与えられたことは、人々の記憶に残るところです。
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